日本とニューイングランド地方の歴史的つながり

メイン州

エドワード・シルベスター・モース

大森貝塚の発見者として有名なモース(1838-1925)は,日本の縄文式土器の命名者でもあり,メイン州のポートランドで生まれました。後にマサチューセッツ州セイラムに住み,動物学者となりました。1877年,彼は,海生生物の採集のために私費で来日しましたが,貝塚の発見により,東京大学で教授となり,通算2年半,日本に滞在することとなりました。その間,研究対象である貝の形をした陶器を見つけたことから,日本の陶磁器を勉強し,陶磁器や各種民俗資料の収集に励むようになりました。米国へ帰国後の1892年,収集した日本の陶磁器約5千点をボストン美術館へ寄贈しました。
貝塚を発見して,日本で初めて進化論を講義した他に,日本の美術の発展にも貢献しました。

青森県車力村とバス市

1889年10月30日早朝,メイン州バス市に籍を置く帆船「チェスボロー号」が,暴風雨により青森県車力村(現つがる市車力)沖300mで座礁しました。それを発見した漁民は,嵐の中,決死の救出活動を行い,乗組員23名のうち4名の船員を奇跡的に救助しました。残念ながら救助できなかった米国人乗組員2名のお墓は,今もつがる市のお寺に残っています。
この感動的なドラマが語り継がれ,車力村とバス市の交流が始まり,遭難事件100周年にあたる1990年,車力村とバス市の直線距離にあたる10,200kmに,毎年の参加者が泳ぐ距離を累計して到達させようという「水泳駅伝」のイベントが,つがる市で始まりました。このイベントは,遭難した船の名前から「チェスボローカップ」と名付けられ,現在も毎年開催されています。
1993年,車力村とバス市は,姉妹都市提携を締結し,2005年,車力村が合併により,つがる市になった後は,つがる市がバス市との姉妹都市提携を受け継いでいます。

マサチューセッツ州

ジョン万次郎

米国と最初に接触した日本人は,ジョン万次郎(1827-1898)です。
1841年(天保12年),土佐国中濱村(現在の高知県土佐清水市中浜)の漁師の息子のジョン万次郎(本名:中濱万次郎)は,14歳の時,手伝いで漁に出て嵐に遭い,仲間4人とともに遭難しましたが,5日半の漂流後太平洋無人島鳥島に漂着し,約4か月生活しました。
そこへ米国の捕鯨船ジョン・ハウランド号に救出されましたが,日本は鎖国中であるため日本へ帰ることはできず,ハワイへ向かいました。仲間は,ハワイで降ろされましたが,万次郎だけは,ジョン・ハウランド号のホイットフィールド船長とともに米国本土へ向かいました。この時,船の名前に因みジョン・マンと呼ばれるようになりました。
万次郎は,ホイットフィールド船長の養子となり,マサチューセッツ州南部のフェアヘブンにある船長の家で暮らすこととなりました。万次郎は,ここで学校に通い,卒業後は捕鯨船に乗って働いていました。
その後,カリフォルニアの金鉱で働いて,日本へ帰るための資金を作り,まずハワイへ渡り,再会した昔の仲間とともに日本へ向かいます。1851年(嘉永4年),琉球(現在の沖縄県糸満市)に上陸して,薩摩本土へ送られました。
鎖国中のため幕府や薩摩藩で長い尋問を受けた後,1853年(嘉永6年),万次郎はようやく土佐に帰ることができましたが,ペリー提督の来航により,米国の知識を必要としていた幕府により江戸に呼ばれました。万次郎は,幕府とペリー提督との交渉などで有効な助言を行うなどして活躍しました。
1860年(万延元年)には,日米修好通商条約の批准書交換の遣米使節団の一人として咸臨丸に乗り,米国でホイットフィールド船長と再会することができました。
万次郎と出身地の土佐清水市と米国での滞在先のフェアヘブン及びニュベッドフォード市は,1987年以来,姉妹都市関係を締結し,毎年,交互の都市でジョン万次郎祭りを開催しています。

新島襄

正規に米国の大学を卒業した日本人は,同志社大学の創立者新島襄(1843-90)です。
江戸の武士の長男として生まれた彼は,鎖国中の日本から飛び出し,海外を知り,新しい時代を拓こうと,1864年,函館から密航を企て,上海を経由して,米国商船「ワイルド・ローバー号」でインド洋からアフリカ南端を通って,1865年7月,ボストンに到着しました。航海中,彼は船員として働き,「ジョー」と呼ばれていました。ボストン到着後は,ワイルド・ローバー号のホレイス・テイラー船長の紹介で船主であるアルフェース・ハーディが,スポンサーとなってくれることになりました。
ハーディー夫妻の支援により,フィリップス・アカデミーに入学して英語を勉強し,在学中に洗礼を受けました。名前は「Joseph Hardy Neesima」となりました。 1867年9月,アマースト大学に入学し,1870年,同大学を卒業しました。彼は,西洋の大学から学士の学位(理学士)を取得した最初の日本人となったのです。このアマースト大学で,彼は,有名な人物の化学の授業を受けていました。後に札幌農学校へ赴任し,「少年よ,大志を抱け」で有名なクラーク博士です。クラーク博士から,最初に教わった日本人は彼でした。
その後,正式な留学生として認可され,1872年,その語学力を買われて岩倉具視を長とする使節団の通訳として,米国及び欧州を巡訪しました
1875年,日本に帰国した新島襄は,京都に同志社英学校を設立しました。

クラーク博士

「少年よ,大志を抱け」で有名なウィリアム・スミス・クラーク博士(1826-1886)は,マサチューセッツ州アッシュフィールドで生まれました。アマースト大学を卒業後,同大学で教授となり,後に同志社大学を創立する新島襄を教えたこともあります。その後,マサチューセッツ農科大学(現マサチューセッツ大学アマースト校)の第3代学長に就任し,任期中,新島襄の紹介を受けた日本の明治政府の熱烈な要請を受けて日本へ赴任することとなりました。
1876年7月,札幌農学校の初代教頭として赴任したクラーク博士は,8か月間,札幌に滞在し,1877年5月,米国へ帰国しました。札幌農学校は,現在,北海道大学となっています。
彼の有名な言葉は,米国へ帰るために札幌を出発した1877年4月16日,現在の北広島市島松で見送りに来た教え子達に「Boys, be ambitious」の言葉を残したとされています。
わずか8か月間の滞在でしたが,彼の教えは今も受け継がれ,たった一言の短い言葉でも,日本中で知らぬ者はないほど良く知られています。

北海道開拓

明治維新下の北海道の開拓初期には,米国をはじめとする諸外国から多くの専門家が北海道に招かれました。米国からは,日本政府の強い要請を受けて48名の米国人が北海道開拓のために来日しましたが,その中でも,ホーレス・ケプロン最高顧問(農務長官)をはじめ主導的な役割を果たしたのがマサチューセッツ州出身者でした。「少年よ,大志を抱け」のクラーク博士もマサチューセッツ農科大学(現マサチューセッツ州立大学アマースト校)学長でした。
今でも,マサチューセッツ州の技術者によって建てられた「時計台」や北海道庁旧庁舎「赤レンガ」,洋風ホテル「豊平館」等が北海道に残っています。
これらの長い交流の歴史により,1990年,北海道とマサチューセッツ州は姉妹提携を締結し,交流団の相互訪問や経済・文化面での交流が続けられています。

ボストン美術館(モース,フェノロサ,ビゲロー,岡倉天心)

学術・文化の街ボストンにある世界有数の規模を誇るボストン美術館も日本と深い関係があります。1870年,地元の有志によって設立され,1876年に開館した同美術館は,王室コレクションなどが元になっていたわけではなく,ゼロからのスタートで所蔵品を集めてきました。今では,ゴーギャン,ゴッホ,ミレー,モネを含め古代エジプトから現代まで,ヨーロッパ,アメリカ,アジア,アフリカ,オセアニアなど世界中の美術品が収集されています。
ボストン美術館では,早くから中国,日本などアジア地域の美術の収集に力をいれていましたが,特に日本美術のコレクションとしては,日本国外にあるものとしては質・量ともに最も優れていると言われています。
それら日本美術のコレクションに特に貢献した人物は以下の人たちです。

エドワード・シルベスター・モース(1838-1925)

大森貝塚の発見者で縄文式土器の命名者で,マサチューセッツ州セイラムに住んでいた動物学者。1877年,彼は,海生生物の採集のために私費で来日しましたが,貝塚の発見により,東京大学で教授となり,通算2年半日本に滞在することとなりました。その間,研究対象である貝の形をした陶器を見つけたことから,日本の陶磁器を勉強し,陶磁器や各種民俗資料の収集に励むようになりました。米国へ帰国後の1892年,収集した日本の陶磁器約5千点をボストン美術館へ寄贈しました。

アーネスト・フェノロサ(1853-1908)

マサチューセッツ州生まれで,モースと同じセイラムに住んでいたが,先に来日していたモースの推薦で,1878年から東京大学で政治学や哲学を教えていました。彼の講義を受けた者には,岡倉天心や坪内逍遙らがいました。フェノロサは,来日後,日本絵画に魅了され,大学での講義の傍ら日本美術の研究と収集に没頭するようになりました。維新後間もない当時の日本には,日本美術を評価せず,西洋文化を崇拝する傾向がありましたが,彼は,日本美術の優秀性を説いて回り,研究を進め,広く紹介することに努めました。1890年,米国へ帰国したフェノロサは,ボストン美術館東洋部長に就任し,日本美術の紹介に尽力しました。また,日本滞在中に集めた「平治物語絵巻」や「松島図屏風」などの膨大な美術品がボストン美術館に寄託されました。

ウィリアム・スタージス・ビゲロー(1850-1926)

やはりモースの知り合いで,医師であった彼は,1882年,モースの3度目の訪日に同行し,短期観光旅行のつもりでしたが,たちまち日本文化や伝統に魅了され,7年も日本に滞在することとなりました。日本の画家や美術研究者を支援し,岡倉天心の日本美術院創設にも資金援助を行い,日本美術界の発展に貢献しました。彼は,多くの日本の美術品を収集し,肉筆浮世絵絵画700点を含む絵画4千点,浮世絵版画約3万4先点などをボストン美術館へ寄贈しました。

岡倉天心(1862-1913)

本名,岡倉覚三。東京大学でフェノロサに学び,英語が得意であったことからフェノロサの助手となり,彼の美術品収集の手伝いをしました。日本美術院を創設するなど,近代日本の美術史研究,伝統美術の復興,文化財保護などに多大な貢献をしました。1904年,ビゲローの紹介でボストン美術館に入り,1910年,東洋部長に就任しました。ボストン美術館敷地内には,「天心園」と名付けられた日本庭園が設けられています。

ニューハンプシャー州

ポーツマス条約

1905年,前年から戦ってきた日露戦争を終結させるために,米国のセオドア・ルーズベルト大統領の仲介により,米国北東部の地で,日本とロシアの代表が講和条約の内容を交渉し,講和条約に調印しました。この講和会議は,ポーツマス(講和)会議,講和条約をポーツマス条約とも呼ばれています。
この「ポーツマス」とは,ニューハンプシャー州ポーツマス市のことで,海に面した風光明媚な街で,夏は避暑地としても賑わいます。当時のポーツマスは,他の避暑地とは異なり,夏でも閑静で,付近にある海軍工廠ならば講和会議の会場として十分な警備体制も可能であるので,ポーツマスが会議地として最適と判断されたのです。正確には,ポーツマスは,日露両国の代表団が宿泊したホテルの所在地であり,会議場の海軍工廠は,隣のメイン州キタリー町にあります。
1905年8月初めから約1か月間,日本の全権委員小村寿太郎外務大臣一行及びロシアの全権委員セルゲイ・ウィッテ元蔵相一行は,ポーツマスのウェントワース・バイ・ザ・シー・ホテルに宿泊しながら,隣町のポーツマス海軍工廠での会議で交渉を行いました。
厳しい交渉の末,同年9月5日午後3時47分,海軍工廠において,両国全権の間で講和条約が調印されました。その前夜,小村全権は,ニューハンプシャー州知事夫妻,ポーツマス市有力者,記者たちを招き,夕食会を開催しました。ロシア側のウィッテ全権らも招かれました。小村全権は,挨拶の中で,平和回復を祝い,講和会議開催に協力してくれたポーツマス市と市民,記者団への感謝の意を表明しました
毎年,9月5日午後3時47分,ポーツマス海軍工廠では祝砲が,ポーツマス市内では鐘が鳴らされている他,2010年には,「ポーツマス条約の日」を定めるニューハンプシャー州の州法が成立し,毎年9月5日をポーツマス条約の日として適切に祝うことを求める声明を発表することを州知事に義務づけ,同州の歴史において重要なこの日を祝うための適切な式典・活動を実施することをニューハンプシャー州民に求めることになっています。
小村全権の出身地である宮崎県日南市とポーツマス市は,1985年,姉妹都市提携を結び,高校生交流や相互訪問団の派遣などの交流を続けています。
ポーツマス市にあるニューハンプシャー日米協会では,毎年,ポーツマス条約の意義や当時のポーツマス市民が果たした役割などを検証するフォーラムなどの行事を開催しています。

ロードアイランド州

ペリー提督

マシュー・カルブレイス・ペリー(1794-1858)は,1794年,ロードアイランド州ニューポート市で生まれました。海軍に入った彼は,東インド艦隊司令長官に就任し,日本を開国させる指令を与えられました。1853年,ペリー提督は,フィルモア大統領の親書を携えて,フリゲート艦ミシシッピ号を旗艦とする4隻の艦隊(黒船)を率いて,浦賀に来航して開国を迫りました。翌1854年,ペリー提督は,再度来航し,日米和親条約が締結されました。その結果,下田と箱館(現函館)が開港しました。
これらに因んで,静岡県下田市では,1934年より「黒船祭」が開催されており,ペリー提督の出生地であるロードアイランド州ニューポート市でも,1984年より毎年「黒船祭」が開催されている。
下田市とニューポート市は,1958年に姉妹都市提携がなされています。